もめのめも書き

日常のエッセイ、仕事の記録など。

ギャラリーSと祖父母のこと。

平日の午後。


私が働く神戸北野にあるお店は、集荷から戻ってきた野菜と、ランチに訪れるお客様で賑わう時間帯だ。野菜をどう並べようか思案していたら、お客様と親しげに話す弊店のオーナーの声。「ギャラリーSの道をさっき聞かれたところです」。

 

その声に反応し、その先を見ると、時々ランチを食べに来られる、文化的なセンスが滲み出る年配のジェントルマンの姿が。来店のペース的に、きっとご近所の方とは推測していたが、どなただろうかと気になっていた。ギャラリーのオーナーに違いない。私は思わず駆け寄って、声をかけた。

 

「私、ここで働かせてもらってますが、◯◯の孫です。」

 

私の祖父母は、このギャラリーの方とご縁が深いことはなんとなく知っていた。祖父母の家にあった印象的な抽象画はここのギャラリーとも縁がある気がしていたし、具体的な関係性なんて知らないけれど、今ここに孫がいることをどうしても伝えたくなったのだ。

 

 

祖父母ともに神戸の文化には深く関わった人物と聞く。

学者の祖父は10年ほどの闘病の末、20年ほど前に他界。

祖母は洋画家。今年95になる。

 

祖父母の名前に、Sさんはしっかり反応してくださった。

特に祖父には、神戸の芸術文化の改革を託され、はっぱをかけられたという。

後から調べるとギャラリーのブログに祖父についての記述があった。
蝙蝠日記 | 2015.11 「振り返ってみれば」

(文中の神戸芸術文化会議の議長が祖父)

 

 

Sさんの帰り際にもう一度挨拶をすると、

ランチを召し上がっている最中に祖父とのいろんなことを思い出して、

感極まっている様子だった。

祖母の健在を伝えると、宜しく伝えてくださいと承った。深く握手をした。

 

 

私は早速祖母のもとに向かった。

祖父が病床に伏せってから、ずっと隣の家に暮らしてきた。

祖母の美意識が詰め込まれたような美しい空間。

画材がいっぱいのアトリエ、世界中から集めたセンスの良い土産物のギャラリー。

時々私はそこに行って、確かにエネルギーをもらっていた。

その美しいアトリエの家は今は別の息子夫妻が今風にリノベーションして暮らしており、祖母は山手のケアハウスで暮らしている。正直、最近はほとんど行っていなかったので、突き動かされるような動機をもらったことを、Sさんに感謝をしていた。

 

祖母は、Sさんのことを確かに覚えていて、

祖父がSさんにはっぱをかけたんだと、Sさんと同じ思い出を語っていた。

少しだけ記憶が曖昧な祖母も、昔になればなるほど鮮明に覚えている。

そしてネガティブな感情の記憶はすべて昇華されている。

それはとても美しい姿だと思った。

親類全てがいつも仲良しこよしでやってきたわけじゃないけど、祖母は、人間関係も含めた人生のすべてが良かったと言っているから、私はそれを事実として肯定した。

自分の人生は、自分も周囲も全て肯定して幕を閉じられたら、それで良いんだと思った。

 

 

私は、最近、拙いながらも絵を描いている。

学生時代から趣味で描いたり、描かなくなったり、ブランクはあるけれど。

今も線を描くのにメインで使っているペンは、祖母から教えてもらったものだ。他に調べることもせず、自分にとっての正しさから定番化している。

時々水彩で描く道具も、祖母に聞いて買ったもの。

初めてMacを買った時も、10万円借りた。もしかしたら買ってもらったのかもしれない。祖母は私が絵を描いていることを喜んでいる。

 

 

1時間ほどの会話の中で、祖母は何度か同じ話をした。

「画材がいっぱいあったからもったいない、誰か使って欲しい」と言ったけど、多分それはもうどこにもないのだろう。

 

「水彩はあまり好きじゃないのよね。油絵が好き。何度も塗り直せるから。」

もしかしたら祖母が今の時代を現役で生きていたら、何度も塗り直せるパソコンを駆使していたかもしれないなと思う。

 

自分で描いたイラストを載せた名刺を渡すと、とても喜んで、読みかけの小説に丁寧に挟んでしまってくれた。私の派手で独特な細工のした服も、アクセサリーも、すべて褒めてくれて、祖母とのセンスの合致に嬉しくなる。そういえば、古着がメインだった学生時代は祖母の服を着ていたな。

 

ちょうど60歳離れている祖母に、「まだ若いんだから、遅すぎることなんてないわよ」と言われると、本当にそうだし、祖母の血を引き継いでいるから出来ないはずはないと励まされる。祖母との握手。次も何か、私の絵を手土産に会いに行きたい。
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