見慣れた緑色のバスの窓の奥に、笑顔でぶんぶんと手を振る姿を見つけた。子どもと会う日だ。遠距離恋愛の恋人と会うとこんな感覚だろうか。直前は少しそわそわして、別れ際は離れがたくて堪らない。人目を憚らず平気で抱きしめたり出来るのは、相手が恋人ではなく幼い子どもだからだろう。
能天気に「ハッピーです」とは言えないけれど、決して不幸ではない。元・家族、ネオ・家族なのか、とにかく元々家族を結成していた我々は、それぞれの今を絶妙なバランスで組み合わせて成り立たせている。これについては外野がどうこう言いいようのないものだと思う。
未完の名作漫画NANAに、登場人物のレンが死んだ時、「レンがいないと 必死に守ってきたバランスが全部崩れそうだよ。昨日までの設計図はもう使えない」というモノローグがある。私の周辺の登場人物それぞれの良心が、今の設計図をHの鉛筆で探り探り描いている。
設計図は、いつも「今」にしか適用しない。NANAのように登場人物が増えたり減ったりすると、新たに書き替えていくものだ。今が未来永劫続くものだと信用しきることも、未来が今と変わってしまうことを憂うことも、両方意味がない。
本当は、能天気に「ハッピーです」と言えるようにしたいのかもしれない。パートナーの成功や、子どもの成長を期待したり自分の喜びとしていた代わりに、自分自身に期待して、誰のためでもなく自分自身に喜びを感じなくては。「なんのために一人でいることを選んだんだ!」と、日々自分を叱咤している。身体を溶かして柔らかい一人前の女性になりたいが、まだまだキュッと腹の奥に力みがある。今夜は、可愛いらしい肩幅ともちもちの肌を抱きながら、甘えた気持ちと明日への奮起を同時抱きしめる。