もめのめも書き

日常のエッセイ、仕事の記録など。

ほふく前進の日常。

接客業中にみる、向こう側。その人は馴染んでいない感じがあった。子育てに。大きなベビーカーを不器用に動かして、赤子をあやしながら食事を進める。口角の上がり方に不自然さはない。少し観察した後、別の業務をこなし、親子のことなど忘れていた頃、気配を感じた。食事を済まして席を立った母親が、立ち止まって周囲を気にしていた。声をかけると「汚してしまって」と困り顔で伝えてきたので、子どもがいるとよくあることだと思い、気にしないように伝え返した。席を確認しにいくと、ベビー用の煎餅が塊で数個落ちていた。想像していた小さな食べかすや、手拭きの山とは異なった。気になれば容易く処理できる程度。少なくとも店員に気づかれるまで立ちすくむより簡単な作業。

(と、測る価値観もある)。

 

母子と再びレジにて対面した際、わずかに騒いだ赤子に対し、女性は困った顔で「ああ、本当にうるさいなあ」と小さく漏らした。言い添えておくけれど、こういうのは日常でよくあることだと思う。女性がなぜか、私にふいに問うた。「お子さんいらっしゃるんですか?」。「はい」と応答すると、「よく育てましたね!」と、本当に感心したような様子で言った。よく、は育てていない。「大変ですよね、頑張ってください。」と、果たして正解だったかどうか、自分で引っ掛かるような言葉で見送った。

 

 

"よくしている、よく生きている、よく暮らしている、よく働いている。"

 

よくなんて、なくてよい。先、何かしらまだ人生が続くようなら、目の前、ほふく前進していけば、道が出来ているんだろう。

 

不器用さを見兼ねて助言をされたとて、ほふく前進タイプは、聞く耳持たない。ガラスの破片で腹に切り傷付けて、「確かにこの道は障害が多かった」と確認したいし、体力なくなってへばってから、「やっぱりあの時肩車してもらったらよかったんだ」と振り返りたい。

 

それが、「よくやってる」という言葉の意だと、わたしの中で、更新する。

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月の満ち欠け

自分があまり読まないタイプの小説を読んだ。佐藤正午著「月の満ち欠け」。駅前の本屋の一等地に陳列されていて、なんとなく読みやすそうだな、と思って手に取った。帯に「熟練の技」と書いていて、解説の伊坂幸太郎は、それを「熟練だからでなくずっと昔から小説センスの塊」って否定しているのだけど。読んでみて、「自分が書きたい想いを書くというより、読み物として面白い小説を書く、技術がある人だなあ」という感想を、実際に私も持った。いつも私が手に取るものは、不思議と自分と状況や心境の多くが重なる物語にあたるので、物語と距離感がやたらと近い。しかし今回は、一定の距離を持って「物語」として読んでいた。途中、間に挟まっていた著者によるメッセージ、「自分は60代だがどっかの兄ちゃんが書いたと思って面白がって欲しい」などの趣旨を読んでしまったので、「60代のベテランなんだ」と逆に意識してしまったせいもある。

 

生まれ変わり・出会いをテーマに、何人もの登場人物の関係性を複雑に描き、徐々に紐解いていて、最後まで飽きさせない。どんどん面白くなってきて、小説がどんどん距離を詰めてきて、遂に、自分と重ねてしまった。これは、私の癖。

 

 

自身に起こる解せぬ因縁みたいな出会いを、小説に重ねて「もしかしてあの生まれ変わりでは」などという考えが落ちてきた。それを契機に、妄想で補足して自分のストーリを作ってみると、なんだかそうとしか思えなくなってきた。小説の登場人物のように「いやいや、そんなアホな」とすぐに現実に戻るのだけど、妄想は、人生の

課題にインスピレーションを与え、悪くないと思う。

 

イラストは小説のキーとなる「瑠璃」という女の妄想イメージ。

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岩波文庫的 月の満ち欠け

岩波文庫的 月の満ち欠け

 

 

 

嗜好の話。

一度スマホで打った文章を、手元にあって使っていなかった原稿用紙と、比較的よく使う万年筆を取り出して書き直した。丁寧でもなく、流れるように急いで書き写したけれど、手が疲れた。時折垂れ流している駄文が生身のものとなって出現し、留まったような印象。ただ、やってみたかっただけ。イラスト、人間の横に牛を描いたけど、色適当に塗りすぎて失敗。削除。

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35歳に寄せて

「お母さん今何歳?」

「35歳」  

  

  

それが自分の母親の年齢を意識した最初の記憶。計算すると、その時私は8歳。青のクレヨンで描いたワンピースを着た母の似顔絵の横に、35さいと書き添えた記憶が、ぼんやりと伴う。  

  

  

当時の母の年齢を迎え、あの頃の母の内心を想像する。「お母さん」という存在にしか見えなかったその心の内に、消化出来ない「女」を秘め殺していたなんてことはなかったのだろうか。  

  

  

35歳。分かれ道、境い目。

産むの産まないの。続けるの変えるの。選ぶ/選ばれる/選ばれない/選ばざるを得ない。現実に抗おうとする程に、現実を知る。女にとっては、そんな年頃なんじゃないだろうか。  

  

  

ゼロからやり直しは効かないし、魔法使いは登場しません。若さ、可愛さ通用しません。産んだ、育てた武器にしても賞味期限すぐきます。男以上にシビアです。35年の地層を見つめ直して、ないない思ったけどこんなにあったよと、自分で自信持つしかないです。 

 

  

それら存じた上で、新しく、皮剥いで、お迎えしましょう。35歳のわたし、お出ましです。  

  

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本、発売のお知らせ。

本が発売されました。

 


子どもがつぶやく、何気ない言葉。

ハッとしたり、キュンとしたり。そんな言葉を約二十年前の子育て中に、数年に渡ってノートに書き留めていたさかいゆきこさん。

 


それらが一冊の本になり、私は、すべての言葉にイラストを添えさせていただきました。

 


ゆきこさんと初対面の喫茶店。そのノートを見せてもらった時、号泣してしまい、なんでだろうかと自分でも驚きました。

 


子どもとのささやかな日常のやりとりは、決して所有できない一瞬のもの。

 


この本に収められたのは、「りょうへいくん」という一人の子どもの言葉を「りょうへいくんのお母さん」が書き留めた、ごく私的なもの。なのに、普遍的。この世界は、光の照らし方次第だってこと、一瞬一瞬が積み重なって来るってことを確認させてくれます。

 


82の言葉から、自分だけの琴線に触れ、心の鍵穴から手を突っ込んで、奥底の感情を掻き出してください。穏やかに笑みがこぼれるかもしれないし、針が刺すような痛みを伴うかもしれない。自分も日々の言葉にアンテナ張って書き留めてみようって思うかもしれない。ゆきこさんと、私もこの本の受け取り方は異なるはずです。

 


Amazonでは販売開始、全国の大手書店でも遅くとも9月10日頃には並ぶ予定だそうです。どうぞお手にとってお買い求めいただけると嬉しいです。私と会える方は、直接販売も可能です。(まとまった人数そろい次第)

 


たくさんの人のもとに、届きますように。

愛を込めて!

...

うるうるあはは

ちいさなおしゃべりたからばこ

 


発行アートヴィレッジ

価格税込1500円

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Amazon

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藪の中。

芥川の「藪の中」は、話し手によって「真実」が異なる。

 

ドラマ「凪のお暇」では、空気を読み器用に生きている”風”の慎二は、より空気を読みすぎる凪の存在に救われているのに、素直になれず凪を苦しめる。凪目線と慎二目線では、同じシーンも、まるで見え方が違う。

 

映画「万引き家族」では、疑似家族に感情移入して長時間鑑賞した後半戦、警察が滔々と状況説明する言葉に、私たちは、さっきまでと異なる世界を見る。

 

10年ほど前に、私は父と祖母をインタビューをした映像作品を作った。二人の視点から語られる真実は異なった。

わたしはナレーションでこう綴った。

「誰もが自分の人生のストーリーテラーになる。それは、すべてが虚構で、すべてが真実。過去を消化し、次へ進むため、自分で作ったストーリーを人に聞かせるのだ。私もまた同じように。私がひもとき、綴り直した新たなこのストーリー。私はまだ見ぬ自分の子や孫の足元に、ひそかにバトンを置いたのだ。」

 

 

真実はいつもひとつじゃないよ、コナンくん。

 

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私は84年生まれ。

助言は、占いと少し似ていると思う。

よく当たるか外れるか、寄り添うものか、脅かす口調か。統計学的なもんですよってところとか。頼まれてもないのに口出しすることは、通りすがりに「あなたよくない影が見えますね」なんて言いがかる占い師みたいだ。何度、こんな似非鑑定結果を堂々と口にしたり、されたりしたものだろう。

 

先行き見通しの立たない時、前例を探す先がネットの海だと蝕まれがちだが、アート、小説、映画などは栄養になる。学問も、良い。アートなんかのように、過去を学び知っていた上で新しい価値を提示してみたい。

 

小説「82年生まれ、キム・ジヨン」と、上野千鶴子の「女ぎらい ニッポンのミソジニー」を立て続けに読んだ。

2016年に初刊が出た小説「キム・ジヨン」は、日本で言うと「山田花子」という記号みたいなもので、その世代の女性が被るあらゆる理不尽が淡々と時系列で描かれている。韓国が舞台だけれど、概ね日本の状況と似ていて、小説の締めくくりは寒気すらするが、現実の世界に続きを託されたような希望の感覚もある。「いくら良い人でも、育児の問題を抱えた女性スタッフはいろいろと難しい。後任には未婚の人を探さなくては。」

 

こういう事象をクリアに観察するために、「ミソジニー」という概念を知りたかった。ミソジニーは、女嫌い、女性軽視のこと。女からすると自己嫌悪ともとれる。「女好き」とされる男は、女嫌い、ミソジニーって説明は分かりやすい。(「女をモノにしたい」という表現など)

 

ミソジニーは女の中にも存在する。「男の価値は男に評価されることで決まるが、女の価値は男に評価されることで決まる」このことが、女同士だからと言って分かり合えるわけではないことを示している。

 

男は女に、娼婦と聖女の両方を求めるという。ミソジニーは女性軽視と女性崇拝の両面があるようだ。聖女というのは、母なる存在で、男の出自でもある「母」を蔑視することは、自らを否定することにつながるから崇拝する。女は両方の役割を被ることで、生きづらさが生ずる。母なる存在は、男の評価で崇められているから、家庭内で母と娘の間に、母性を盾にした分かり合えなさが生まれるんだろう。

 

場合によっては読後感の悪いこの本の中で、希望を感じる一文を抜粋。「『女』という強制されたカテゴリーを、選択に変えるーそのなかに、『解放』の鍵はあるだろう。」

 

両方ともお薦めします。

 

 

82年生まれ、キム・ジヨン (単行本)

82年生まれ、キム・ジヨン (単行本)

 

 

 

女ぎらい――ニッポンのミソジニー

女ぎらい――ニッポンのミソジニー

 

 

 

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