もめのめも書き

日常のエッセイ、仕事の記録など。

味噌づくりの季節。

冬の風物詩、味噌づくり。通算、何回つくっただろうか。自分だけでやった経験は一度もなく、毎度誰かとやってきた。近所のお母さん、友達など。

 

味噌づくりが大変なのは、大量につくる時、豆を煮る作業とそのための道具や場所を確保することと記憶している。ある年は、近所の農家のお母さんに味噌パートナーになってもらって、陽がまだ昇りきらない暗い時間から、どでかい釜に薪をくべて豆を炊いた。そして街に暮らしている友人らを招いてイベント化したけれど、豆を炊いてからの作業は、それほど苦労しなかった。

 

 

今年は、まさに、客人として、炊かれた豆を目前にした。屋久島の宿の料理人もしていた「友来り(ともきたり)」のユカさんが定期的開いている料理教室に空きが出たと伺い、タイミングよく混ぜていただいた。また今年も、おんぶに抱っこ方式で味噌づくりにありつけた。もちろん味噌づくりなど料理そのものにも関心はあるが、なによりこういう場をきっかけに、人と寄り集まり、雑談をするのが大好きだ。大好きなユカさんの野菜の漬物や握り飯なども食べられて、心身満たされた。

 

 

今日はジップロックコンテナのLサイズに収まる量をつくった。ボサッと依存しながらとは言え何回も経験してきたのと、コンパクトなサイズ感、ユカさんの的確な段取りのもとのレクチャーのおかげで、ようやく味噌づくりの全貌が理解できたかも。遅っ。

 

味噌が美味しくなるのは、約一年先。タイムカプセルみたいにジップロックコンテナの裏に、手紙でも書こうかな。2021年のわたしへ、って。

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意志ある選択の積み重ね。

転職をした。初日から数日、通勤までのお供は、「おとなの進路教室。」(山田ズーニー)。新たな日々へのはなむけに、と友人からもらったもの。これが今のタイミングにすごく良かった。働くということにまつわる様々な問いに、自分の考えを引き出すきっかけをくれるようなコラム集。

 

 

私にとって今回の転職は、人生の忘れ物を取りに行くような感覚がある。コラムの中で、「お金、恋愛など、経験さえすれば『こんなものか』と幻想が取れる」と書いていた。私の場合、会社で働くということを十分にしてこなかった。逆に、田舎移住、結婚、起業(私が主導したわけではないけど)あたりは、経験済み。

 

自分にとっては、真新しい場。あたかも私は、糊の効いた新品の蚊帳ふきん。しかしまあ、35年生きてきた中で、糊が取れるまではぎこちないが、時期に馴染むことを経験として知っている。何度も、何度も、何度も…懸命に調えた場を住み替えるという経験は、それはそれは身に堪えたけど、何度もすれば血となり肉となっている。

 

だけど、振り返ってみたら「転職」というより「初めての就職」というぐらい、あまりにもフリーダムに生きてきたから、ズーニー氏の本が、チューニングの手助けとなった。「仕事は勉強ではない」という話や、「後ろに回らず打って出ろ、新人」という話が特に。

 

今回の転職という選択の裏に、娘を育てるという選択があった。紆余曲折いろいろあった。それに伴う仕事の再選択。再選択をする上で、改めて自分がなぜ今、バツイチなんだっけ、と問うた。自分の人生を生きたかったのではないのか、と。結果、私の2つの選択は、乖離した。働く場として私を引き受けてくれた会社は、住まいから遠方。2つの選択を、身一つでは実現できず、母の全面協力でスタートを切った。

 

別の長い付き合いの友人に、近況を結論だけ簡潔に伝えると、「いろんな選択の積み重ねがあったと想像できるわ」とコメントをくれた。ズーニー氏の本に、「意志ある選択が人生をつくる」とあった。先がどうなるとか、そういうことが重要ではなく、「考える」ことが「意志」となり、それが「人生」をつくっていくと。

 

 

他にも、響いたトピックを挙げておく。

自己実現難民探すのは「自分」ではなく、社会に出る「道」という話

・「33歳病」は自分が突き抜けていく胎動という話

・何者になりたくてもがいているトホホな時期に、人生で一番友達が多くできた話

興味ある人は、ぜひ読んでみて。

 

おとなの進路教室。 (河出文庫)

おとなの進路教室。 (河出文庫)

 

 

NYへ。

年末年始の休みが長くあったので、旅へ行くことにした。ひとつの思考に没頭し易い私は、行動が留まってしまう傾向にある。それゆえ、わたしとって旅(特に海外)はどちらかと言えば、快楽より修行の色が濃い。

 


決めた行き先はNY。国内にしても「美術館へ行きたい」が1人でも能動的になる動機。現代美術の宝庫のNYは、いつか行ってみたいとうっすら思っていた。

 


1人旅の予定だったが、休みが重なった友人が、わたしも行こうかなと言い出した。料理家の彼女は、これから再始動する自分の店のインスピレーションを求めて旅先を探していたところであった。旅は道連れ。1人ではあり得なかった出会いもあった。

 


ブルックリンのアパートに滞在し、それぞれの行きたい場所に各自行ったり、共に行ったり。

 


旅立つ直前、知人に勧められたオフブロードウェイ、「Sleep  No More」は行ってよかった。(興味ある人は詳細をぜひググッてください)鑑賞のコツが分かってからは、走って、目撃し、エキサイティング。単純に、俳優が目の前で全裸になるという理由だけでも、同じものが日本で公演されることはなさそうだから足を運んだ価値あり。

 


時差ボケもあり、眠りにつけなかった夜に、読みかけの原田マハの「楽園のカンヴァス」を読み切って、MoMAに向かった。題材になっているルソーの「夢」を目の前にした時は、ひとつの絵画で史実に基づきつつフィクションを加えて創作する原田マハすごい!ってなった。MoMAは、他にも名作がゴロゴロしていてお腹いっぱい。

 


もっとも楽しかったのが、現代美術家の野村康生さんのアトリエに訪問したこと。(http://yasuonomura.com/index.html)旅した友人の友人で、滞在中に思いたって連絡して会いに行くことになった。これぞ旅は道連れ。友人さすがNYに出てきて現代美術の世界で勝負してるだけあって、この世界に対して幅広く勉強されてるし自分の考えを持っている。私たちの滞在してるアパートで夜な夜な話した。数年、自分のことで必死だったから、世の中に対しての意識を絶っていたけど、改めて接続し直そうと思った。そうつぶやくと美術家の彼も、料理家の友人も、「いやいや結局自分を幸せにしないと」と笑って否定した。そうだ、私も確かにずっとそんなことを言っていた。世界の幸せを祈るなら、まず足元から。そんなこと言うのも憚られてたが、改めて。外へと接続しながら走り出す準備はもう整った気がする、なあ。

子年のひとたち。

この2年、1984年生まれのひとにたくさん出会った。不思議なほどに。  

  

  

話したら同い年ということが連続し、文章、建築、農業、料理、絵、映像、グラフィックなんやらかんやら、いわゆる1984年生まれの神戸周辺の(こういう属性表すのも不粋だけど)クリエイターたちの友人・知人が増えた。一緒に食卓を囲んだ過半数1984年生まれだという状況もあった。  

  

  

クイズ!年の差なんて©️フジテレビ)だとは思うが、全く同じ年に生まれたひとたちがここまで揃いも揃うと面白い。   

  

なんの因縁だろうと思うが、来年は子年ではないか。  

なんかありそうな気がする、ネ!

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愛はある。

自分が幸せでいることと、世界で悲劇が起こっていることの間に生じる罪悪感。世界で戦争が起こり、日本で天災が起こり、社会で殺人があり、個人で不妊など様々ある。当事者の苦しみと、当事者じゃない苦しみ。「この世界には愛が存在するんだ」と叫び続けることで、苦しみを払拭してくれる、完璧な小説だった。

 


登場人物が、アイとかユウとかいう名前で、ある種記号化されていることで、これは誰かの物語になる。

 


小説を読みおわったタイミングで、たまたま星野源の「ドラえもん」を歌詞表示つきで聴いた。この歌を聞いて胸を駆け抜ける普遍的な強い愛のメッセージと、小説の読後感はなんだか似ていた。完全に私の感覚だけど。

 


変わらない世の中に苦しむ、愛のある人にぜひお勧めしたい一冊。

 

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下町芸術祭、野生「能」。

美術家、森村泰昌さんのパフォーマンス「野生『能』」を観た。

 

大阪の釜ヶ崎、京都の須原、神戸の福原という下町が題材。能、漫才、演劇、映像、小説などいくつもの形式を使用したり、引用していて、内容は小難しすぎずも、鑑賞者に想像の余地を残していた。

 

まあ、とにかく面白かった。

 

途中、森村さんの十八番である「変装」で、下町新党党首、町下路地蔵が、「ロジスティクス路地スティクス」と弁を奮う。

 

便利さのため路地を排除し直線を結ぶのが「ロジスティクス」で、路地に迷い込み、途中もはや目的がなんだったかさえ見失いながら彷徨い続ける「路地スティクス」。(ああ、路地スティクスな表現や人生を謳歌したい、と、思った。)

 

 

「美しい」と「きれい」は違う。坂口安吾の「日本文化私観」に「やむべからざる実質がもとめた所の独自の形態が、美を生むのだ」とある。

 

 

「良いこと」志して、きれいにしちゃう。何もかもが、どことなく似た雰囲気、似たデザインに塗り替えられていく。きれいはロジスティクス的な取り繕いで、美しさは路地スティクスのセンス。

 

「きれい」から外れると炎上するから、ますます「きれい」に取り繕い、表現は「不自由」になっていく。「美しい」もの、味わう力を養う努力していきたい。

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横尾さんとバスキア。

地元に開館してから随分経つのに、思い立ってようやく初めて訪れた横尾忠則現代美術館。「自我自損展」という言葉に惹かれたのと、横尾忠則自身がキュレーションしたというのにも興味があった。

 

 

思い立つ、というのは見えざる何かに後押しされていること、きっとあって、物事がうまく流れる。「無料開放日」と書いていて、一銭も払わずに、混雑もせずに、優雅な鑑賞日和。「話題」の展覧会、森美術館バスキアを見るには、2100円もして、行列もした。(言っておくが、行って良かった。)2100円と言えば、直島の地中美術館と同じだけで、不思議とこちらは高いと感じず何度か行っている。同じく瀬戸内にある豊島の横尾館は、本来が510円だが、「島民」だったことがあるので、その時に無料で何度か行った。そういう意味においては、今のところ、横尾さんには縁がある。

 

バスキアみたいに若くして亡くなり伝説となっているアーティストもいれば、80歳オーバーで、生きながらにして伝説となりつつある横尾さんみたいなアーティストもいる。横尾さんがグラフィックデザイナーから画家への転身を宣言したのは、45歳の時に観たMoMAでのピカソ展であり、ピカソがそうであったように、横尾さんも過去を自ら否定するようどんどん変化している。分かりやすく、過去の自身のポスターデザインの上からペインティングしている作品もあった。

 

既存社会の規範と常識からはみ出しにくい昨今、一見はみだしてつくりあげた、「新しい世界の自分」という枠に結局おさまってしまう恐怖。ええことやったったで、頑張ったで感の中に浸ってしまって、自分や世界のそれ以上の変化・可能性を見限って、実は閉ざしている。それらに叱咤激励して打破してくれるのがアートという存在。バスキアは短命の中で遺してくれていて、横尾さんは、老いによる自由さの獲得を示してくれた。

 

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